クリストファー・ロビン・ミルン 〜 Christopher Robin Milne 〜



(1920年8月21日〜1996年4月20日)


クリストファー・ロビン・ミルン(Christopher Robin Milne)は1920年8月21日にイギリスのロンドンにあるチェルシーで生まれました。
父ミルンと母ダフネの間に出来た子供で「WINNIE THE POOH」の登場人物として有名です。
ミルンは実の子を本当の名前で、自分の童話に出てくる虚構少年として登場させました。
このお話は大ヒットしたため、これだけ有名なお話に出てくるというだけで世間の人々は、同じ名前のこの2人を同一視しないはずはありません。
そのためクリストファー・ロビンはこの名前を生涯背負い苦しむ事になってしまいました。

「物語では、あんなに愛情と理解を持って愛のあるお話を書いているのだから、実際にも愛情で包み込んだ生活をしているに違いない。」と世間の人々は思いこんでいました。
しかし実際は裕福な家庭の常であったナニ−(乳母のこと)をクリストファー・ロビンが9歳になるまで雇っていたため、 ミルンとロビンの関係は動物園に行ったり、サセックスの森を散歩させたり「おやすみ」を言いに来た時の短いお話をする位しか無かったのです。

ロビンが成長してナニーがいなくなってから、父は息子と少年時代に熱中していた事を一緒に楽しむようになりました。
その後も親子は数学を一緒に解いたり、鳥の巣を探し川で生物を捕まえ、草原でクリケットをやったりもしました。
ミルンは息子との空白の時間を埋めようと必死でした。
ロビン自身も18歳までの間、父親を熱愛し賛美し彼の考えを受け入れましたが、同時に極度に感じやすくて傷つけられやすく、 すぐ腹を立てたりもしました。
それでもミルンはユーモアで偽装し、間違いを正すことはあっても自分の中にある感情を表に出さなかった為、 物語に出てくるロバのイーヨーの様だったとロビンも思っていました。

成長したロビンはストウの寄宿学校に行きました。その後父と同じケンブリッジ大学に進むため、1939年に奨学金を勝ち取りました。
しかしその頃は第一次世界大戦が始まっていて、ロビンも大学を一年だけ行くと殆どの時間を戦争の防御ボランティアに費やしました。
同じ年にロビンは軍隊に志願し試験を受けましたが身体検査で落されてしまい、父が当局に手紙を書き再審査を頼んで、 やっと志願通り軍隊に入れたのです。
ここでもミルンの他とは違う行動が見られます。身体検査で落され軍隊に行かなくても良くなれば普通の父親は喜びます。
しかし彼は息子のために役立つことがあれば何でもする父親だったのです。
こうして戦争中までは親子の関係も順調に推移していきました。

しかし、1947年に父と子の親密だった関係はガラリと変わります。
ロビンは軍隊から帰りいったん大学に戻った後、大戦後の社会に出ました。
父は作家として成功をおさめていましたが、ロビンは書いては見るものの使い物にならず、色々な仕事を次々に試みました。
しかし、どこでも彼の才能を買ってくれる雇い主を探す事は出来ませんでした。
それまで気にも止めなかった、自分があの有名な虚構の人物クリストファー・ロビンのモデルであると世間が信じ込んでいる事が 初めて大きな問題としてあらわになったのです。
どんなに避けようとしてもその名は彼の人生に割り込んできて邪魔をするのです。
彼が何か過ちを侵そうとも、父の名声のおかげを蒙るだろうと人々は考えたのです。
この事もあり、ロビンは父に殆どものを言わなくなってしまいました。
ロビンは後に「自分自身として生きるのなら、父との関係は犠牲にされなくてはならない。」と話しています。

ロビンは1948年に親の反対をよそにいとこのレズリー(Lesley de Selincourt)と結婚し、 ロンドンを離れてストーク・フレミングの村に移り住みました。
この事により父親との距離が出来て、将来についてや自分が背負う名前について色々と悩みながら、1年後デボンで本屋を開きました。
そこで彼は20年もの長い間カウンターの後ろに座り、その間も名前や父親の名声に悩まされ続けました。
彼は物語のクリストファー・ロビンに振りまわされ、嫌悪感を抱き続けました。
そんな中でも、心とは裏腹に握手を求めてくる子供や、イメージを押し付けてくる大人達にどんなに心痛めた事でしょうか・・・。
望まない名声によって、彼はたびたび公の場に担ぎ出されることもありました。
そしてロビンはその名声を逆に利用し油探鉱者の破壊の跡からアッシュダウンの森を保護するキャンペーンに携わることもありました。
この森は自分が子供の頃に遊んだ森であり、都会人が呼吸しに来る事が出来るロンドン近郊にある唯一の自然だったのです。

ロビンは52歳になった頃、妻のレズリーに書店の鍵を渡し自分は自宅のタイプライターの前に座って自叙伝的な本を書きました。
クリストファー・ミルンと言う名前で・・・。

「The Enchanted Places」1975年4月 ☆ 「The Path Through the Trees」1979年8月

これまでの生い立ちからクリストファー・ロビンは、親に対して自分勝手な印象があり、 わがままなイメージの人に思えますが普段の彼は決してそうではありませんでした。
いつも静かな人で、自分の周りの小さな世界に住んでるカブトムシなどを愛して研究し、鳥や音楽についても詳細に調べて、とても詳しかったそうです。

そして1956年1月末、父ミルンは74歳の生涯を終えました。
葬儀はロンドンの教会で行われましたが、式の間には「プーの歌」が歌われ、オルガンの伴奏をバックに「夕べの祈り」が朗読されました。
この時ロビンは古ぼけたコートを着て参列した為、それを見た母親ダフニは困惑し、観衆の心にも強く印象付けられました。

父の死後、ロビンはニ度と母親と会うことはありませんでした。
未亡人となった母はミルンの死後15年も生きたのですが・・・。
そういえば昔、こんな事がありました。
父ミルンと十代のロビンが、ナニーが居なくなって急接近して愛情を育んでいた頃、 彼の母親のダフニは流行に最も興味を持ち、自分の内気な息子に与える愛情や時間よりも、 夫のお金と共に費やす時間に力を注いでいたそうです。

はたして、彼の人生は幸せだったのでしょうか・・・?
それはロビン本人以外の誰にも分かりませんが、
もしも、プーの親友の名がクリストファー・ロビンでなく違う名であったのなら・・・。
あなたも考えてみてください・・・。

そして最近の事ですが1996年4月20日、クリストファー・ロビン・ミルンは 神経学上の難病とされる重症筋無力症により苦しんだ末、75歳でお亡くなりになりました。


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