E.H.シェパード  〜 Ernest Howard Shepard 〜



(1879-1976)

アーネスト・ハワード・シェパードはA.A.ミルンの書いた「WINNIE THE POOH」の挿絵を描いた人物です。
クラシック・プーを生み出した人と言っていいでしょう。
シェパード自身は、自分の描く油絵をこよなく愛していました。
しかし、世間の人々はシェパードの挿絵を見て大人も子供もプーの事を大好きになりました。
油絵よりも白黒の挿絵にみんな心を奪われたのです。

シェパードは1879年に建築家の息子としてイギリスのロンドンで生まれました。
そこは、ミルンの生家にも近いスプリングフィールド・ロード55番地でした。
建築家だった父にも絵の才能があり、母方の祖父も著名な水彩画家だったのでシェパードが幼少の頃から優れた画才を示していた事も不思議ではないでしょう。
幼い頃のシェパードは父親の期待の裏で、画家とはかけ離れた職業でもっと冒険が出来そうな(本人の考えから)軍人になりたいと思い、 戦争の絵ばかりを好んで描いていたそうです。

シェパードが10歳の時、長患いの母親が病死してしまいました。
幼くて末っ子だった為、悲しみから立ち直るのに長い時間がかかったそうです。
生前母親はシェパードの才能に信頼を寄せていました。
「絵を描く事でお母さんの信頼に報いたい!」シェパードは、この頃将来は画家になろうと心に誓っていました。

母の死後、一家は父親の事情により経済的に困窮していた事もあって、まだ未婚の叔母達の世話にならざるを得ませんでした。
そして厳しい伯母達のもとで暮らしたこの時期はあまり幸せではなっかたようです。
やがて父親は自分たちだけで暮らす決心をします。
一家はハマースミスに家を見つけて引越しました。

この頃の彼は、色々な伝記を読んだり、様々な文書を研究して行くうちに“運命のマジック”と呼べる出来事が起こっていることを感じます。
本当に偶然は必然であると言う出来事やバックアップが、長い人生にはおこるのだと・・・。
シェパードも引越した先で運命のマジックとも取れる事柄に出会います。
それは、この界隈には職業画家たちが多く住んでいた事でした。 シェパードはこの時期ありあまる芸術的雰囲気の中で育ち沢山の画家たちにふれ、 多面的な会話から人生において大きな刺激を受ける事となります。

15歳の時、叔父が校長をしていたセント・ポール校に入学し最終学年では、すでに週末にへザリー美術学校に通い、 王立美術院学校に入学する準備を始めていました。
その後1897年に美術学校に入学した彼は、合計3個の奨学金を獲得する程の優秀な画学生だったそうです。
シェパードは王立美術院学校に通う間に「パンチ」の創始者の一人であるエブネイザ−・ランデルズを祖父にもつ 3歳年上の女学生フローレンス・チャップリンと恋に落ちます。

その後1902年に父親も他界してしまいます。その時の治療費がかさみ、また貧困の時代が始まりました。
シェパードにとって家族の死は、すぐに貧困に繋がっているような気がします。
しかし彼はそういう時にこそ、自分の大切な物を見極め選ぶ力が備わっていた気がします。
父の他界後にシェパードはパートナーを見つけ、1904年にフローレンスと婚約をします。
そしてすぐ2ヶ月後に2人は結婚をします。彼らはサリー州の小さなコテージに住み、ここで長男と長女を授かりました。

1906年から雑誌の表紙や挿絵を描き、1907年には学生時代からの夢が叶って「パンチ」の風刺漫画を描き続けました。
第1次世界大戦が勃発すると彼は陸軍砲兵隊に志願し、子供の頃からのもうひとつの夢を果たしました。 その軍隊においては陸軍大尉まで昇進する奇才振りも見せました。
1919年に帰還すると「パンチ」の編集にも携わって、多大な貢献をしました。




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送